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オスマン臼砲 [2024/05/19 19:06] – [テーブル] fruct | オスマン臼砲 [2025/03/20 18:16] (現在) – fruct | ||
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うまく狙えば建物の向こうなどを一方的に爆撃できる。\\ | うまく狙えば建物の向こうなどを一方的に爆撃できる。\\ | ||
他の兵器とは扱い方が大きく異なるため慣れが必要。\\ | 他の兵器とは扱い方が大きく異なるため慣れが必要。\\ | ||
- | 青色より紫色のほうが飛距離が長い。\\ | + | 青色より紫色のほうが飛距離が長い。 |
+ | ===== 史実におけるオスマン臼砲 ===== | ||
+ | オスマン帝国では、15世紀半ばからすでに大型火砲を実戦投入しており、臼砲(モルタル砲)も攻城戦の切り札として用いられてきた。特に1453年のコンスタンティノープル陥落時には、メフメト2世が巨大な射石砲と並行して臼砲を配備し、城壁背後への曲射砲撃を行ったと伝えられている。以降も数多くの包囲戦で臼砲が投入され、要塞内部に火災や混乱を引き起こす戦術が重視されていた。 | ||
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+ | * 15~16世紀:石弾や鉄弾を用いた比較的大型の臼砲が攻城戦の主力として活躍し、コンスタンティノープルやベオグラード、ロードスなどの包囲戦で大きな威力を発揮していた。 | ||
+ | * 17世紀:炸裂弾(内部に火薬を詰めた砲弾)の普及によって臼砲の破壊力がさらに増し、ウィーン包囲戦や長期にわたるキャンディア包囲戦などで効果的に運用された。敵の士気低下を狙う砲撃としても有効だったとされる。 | ||
+ | * 18世紀:西欧技術の導入や口径規格の統一が進み、フンバラジュ砲兵隊(臼砲・爆弾兵科)の近代化が図られた。攻城や対艦砲撃だけでなく、小型臼砲による野戦塹壕からの曲射など、運用の幅が拡大していった。 | ||
+ | * 19世紀以降:欧米で後装式・施条砲が普及するにつれ、旧来の滑腔式臼砲は次第に時代遅れとなっていった。オスマン軍も外国製の近代砲を導入するようになり、従来の青銅鋳造の臼砲は要塞や沿岸防衛などの一部用途を除いて姿を消していった。 |